アニが考える『子どもが学校に行く理由、行かない理由』
アニです。投稿自体は2カ月ぶりになってしまいました。遅筆にも程がありますね(苦笑)
今回は子どもたちが、学校に行く・行かない理由を考えて、なぜ不登校になってしまうのか考えてみたいと思います。
ネットで検索すると「なんで学校に行くのか」みたいなことを書いた投稿はゴロゴロしてます。現在進行形で学校に通っている子から質問なんかもありますね。
本当に回答はさまざまです。
学者の方も書籍で色々と書かれています。専門的な考えはそちらに任せるとして。
アニは中学まるっと不登校です。
そのころ「学校に行く理由ない」と思いながら「学校行かないと人生終わってしまうな」という恐怖感を持ってました。
そして「なんでみんな学校に行ってるのかな?」と疑問に思ってました。
そんな不登校の頃を思い返しながら、何で子どもが学校に行くのかを考えてみたいと思います。
当然ですが、アニの個人的見解です。参考程度に。
子どもが学校に行く理由
そこではまず何で学校に行くのか考えてみたいと思います。
行くのが当たり前
少なくとも日本においては、親が子どもに教育を受ける権利を保障する義務がありますから、教育機関である学校に子どもを通わせることは当たり前となっています。
小学校に入学する時「何で学校行くの?」と思っていた子はそうそういないでしょう。
日本の風習的に当たり前なのが「学校に行く」です。
その常識が覆されるのが不登校ですから、今でも社会的問題の一つとして取り上げられることになっています。
そして子どもが、自分自身がその常識を守れないと知った時、自分に対する失望感たるや想像を絶すると言って差し支えないでしょう。
アニは「学校も行けない自分は死んだほうがいいな」といつも思ってました。
学校に行くことが当たり前だから、そして当たり前を守らないといけないという強迫観念みたいなものは大きいと思います。
または「何となく」行っていることもあります。これも当たり前だから「何となく」なのでしょう。
将来的に苦労する/将来のためになる
ネットの「学校に行った方が良い」とする意見の中でけっこうあるのが「学校に行かないと将来的に辛い思いする」です。
確かに学歴と生涯収入の関係など、そういった統計からも「生活の物理的な豊かさ」という点では間違いないでしょう。
不登校になると大人は「将来を考えて」と子どもを説得しにかかりますが、ハッキリ言って無駄です。
何故なら子どもは「不登校は将来的にマズい」と知っているからです。知っていて不登校になっているのですから。
アニの場合「人生終わった」と常々思ってました。
「行かないと将来が不安」と思っている場合は無理してでも学校に行こうと思うでしょう。
もしくは学校に行くことに対して「将来のためになる」と実感があったりすれば望んで学校に行くでしょう。
勉強やスポーツに取り組むことに何かしらの意義を感じるなら、行かない理由はありません。
勉学の場合、授業が面白いかどうかも重要だと思います。面白いものは飲み込みも良くなりやすいですし、実感にもつながりやすいです。
落ち着ける居場所がある
学校内外問わず、不登校の対策として頻繁に「居場所作り」がテーマに挙がります。
「居場所」の定義は難しいですが、アニが考える「居場所」とは、心理的に落ち着ける人間関係が保障された空間だと考えています。
学校内で言えば以下のような関係性や空間だと思います。
友達
友達だと思える人間関係があれば、会いたい、話したいという気持ちが生まれますから、自然と会いに行こうと思います。
ただクラスメイト程度の関係であれば頻繁に会いたいとまでは思いません。
クラブ活動
クラブ活動は一つの目的を共有した仲間関係が成立しやすいです。
また「先輩・後輩」など、自分の立場や立ち位置が比較的ハッキリしやすいのも特徴だと思います。
先生などの大人
学校での大人といえば先生となりますが、別に事務員やスクールカウンセラーの方でも十分です。
授業など実務的な空間とは別に、信頼できる大人と、コミュニケーションが十分な量・質が担保される空間であれば良いかと思います。
例えば、保健室登校などは信頼に支えられていると言えます。
自分が落ち着ける人間関係が学校にあれば、自然と足は学校に向くものです。
子どもが学校に行かない理由
子どもが学校に行かない理由とは、行く理由の逆説的なものだと思います。
何となくでは行けなくなった
ふと「何で自分こんなことしてるんだろう?」と考えることは大人でもあるかと思います。
学校に行くことは当たり前であると考えつつも、何故か疑問に思ってしまう。
大人であれば色々と理由を考えて払拭できるでしょうが、子どもであればそうもいかないかもしれません。
思春期など心理的に不安定な時期であれば、なおのことであると思います。
一つの常識を疑うようになると、全ての常識を疑うようになるので、自分の命や人生そのものが価値がないように思える時があります。
不登校の子で、不登校になったことに対して「理由はない」「何となく」「分からない」と言う子がいます。
これは何となくでは疑問を流せなくなってしまったためだと思います。
疑問は自身で解決し、答えを見つけるしかありません。
対話の中で疑問の正体をハッキリさせることなど、大人としてはそういった手助けぐらいしかできませんが、するとしないとでは大違いです。
ちなみにアニが不登校になった理由は「学校に行く理由がない」です。
小学五年生の時に夕陽を見ながら何となく「自分は何故ここにいるのか?」と思い、何故かは分からないけど「自分は意味のない人間だな」と感じたことは今でも覚えています。
学校ではその疑問を解決できないことは何となく分かっていましたから、全く学校に行く理由が見出せず、結果不登校になりました。
自分にとって意味がない
少し抽象的な話をします。
「将来のためになる」という実感とは、未来にそう思うことではなく、今この瞬間に感じることです。
現在その実感がないのであれば、例え将来のためになるといっても、自分のためにはならない、意味がないと感じます。
それは間違いではありません。未来とは現在の積み重ねですから、現在が無意味なのであれば、未来にもつながりようがない。
今の自分にとって意味がないのです。
不登校の子どもに対して大人が「将来のために学校に行け」と説得するものの通じない理由はこのためです。子どもの側としては、この瞬間にそうなる実感がないのですから。
つまり学校に行くことで「将来のためになる」と証明するためには、今現在、学校でその実感を子どもに対して与え続ける必要があります。
何が「将来のためになる」と実感するかは、子ども各々の感覚に因るところなので、一概に「こうすればいい」というものはありません。
ただ実感を得やすい工夫というものは存在します。
例えば、学校の先生であれば面白い授業、クラブの顧問であれば分かりやすいコーチングの工夫です。
また順調であるとしても、勉強や練習はそれなりに疲労を誘いますし、心理面で負担もあります。ペース配分が苦手な子、無理をしやすい子などへのフォローも重要なことです。
たまに「先生の授業つまんない」と学生の子がボヤいていることありますが、想像以上に罪深いことであると考えて欲しいです。
「つまらない」とは「実感がない」ということであり、「意味がない」と同義です。
居場所がない
先ほども記載しましたが、 アニが考える「居場所」とは、心理的に落ち着ける人間関係が保障された空間です。
「友達」「クラブ活動」「先生など大人」との関係において心理的に落ち着けない場合、それは「居場所がない」ということです。
予め言っておきますが、いじめなど、根本的に人間関係が破綻している話はここでしません。論外の話ですから。
友達関係がリセット
転校や進学によって友達関係が一旦リセットされると、再度居場所を構築する必要があります。
コミュニケーションが得意な子はそこまででもないでしょうが、苦手な子は再構築に時間を要します。
「中一ギャップ」などはこれに相当するでしょう。
学校側が不登校になった子に対して登校を促す手段として「友達と思われる子やクラス委員で自宅に迎えに行く」ということが頻繁にあります。アニもありました。
こういった状態で仮に学校に行ったとしても、また行かなくなるでしょう。
なぜなら友達関係はリセットされている訳ですから、呼びに行った彼らは学校で不登校の子をずっと気に掛けるほど奇特ではありませんし、自分の友達仲間と遊びたいです。
幸運にも馴染めれば良いですが、中々難しいでしょう。
アニの場合、学校に来てという「寄せ書き」もありました。自分のこと知らない子も書いていたので「何これ」と思ったものです。
ひとりでいることを許さない環境
近年はSNSの浸透などで、友達関係が学校のみならずプライベートの時間まで気をつかわないといけなくなりました。
例えば、LINEの既読無視を非難している人は、プライベートまで友達関係に気配りしなさいと言っているようなものです。アニ個人は「ほっといて」と言いたくなりますが。
何らかの形で集団化が進みやすい環境の中では、ひとりでいることは奇異なものとして映ります。
つまり、ひとりで問題ない子を周囲が問題視したり、またはひとりでいることを気にしている子を更に追い込みやすい環境であると言えます。
こうなると、話や考え方が合わない友達関係を無理やり継続したり、逆に集団から逸脱した子を非難したり、集団に属しない子へ迫害に近い言動が目立つようになります。
こういったしがらみから逃れるため不登校になるのは、そう想像に難しいことではありません。
大人からの間違った期待
クラブ活動やクラスなどで何かしらの職責を負うことがあります。
期待することは悪いことではありませんが、子どものキャパシティを超えるような期待は、責任によって子どもを潰すことになります。
または進学クラスのような学業の面で期待されている子は、学業が学びの場ではなく、競い合いの場となります。
競うこと自体は悪いことではありません。ただ、それはあくまで自分自身が自分自身のために望んでいる場合に限りです。
周囲の大人が子どもに競い合いを強要するということは、大人が子どもを自分の利益を生むための道具とみなしていると言えます。
道具は要をなさなければ捨てられることになります。ひたすらに結果を求められます。心の落ち着きとは程遠いことは明らかです。
学校はあくまで手段
アニは「自分に適した場を選ぶべき」と考えています。
学校が良いならそれが良い。
学校以外(フリースクール・フリースペース・ ホームエデュケーションなど)が良いならそれが良い。
自分に合わない場所ほど人を不幸にするものはないと思っています。
問題は子ども、そして大人の側に「学校以外の選択肢がない」ことです。
この「学校に行く理由、行かない理由」を気にする根底には「学校には行くべき」という観念があります。
学校は学びの手段であって、学校に行くことは目的ではありません。
学校に行くことで得られるものは多くあります。逆に学校に行って失うものもあります。
学校に行かなくて得られるものも多くあります。逆に学校に行かなくて失うものもあります。
アニの場合、不登校になり図書館に入り浸っていたことも良かったと思っていますし、大学での学生ライフも楽しかったです。
逆に中学と行っておけばと後悔することもありますし、通信制高校だったので制服に憧れがあったりします。
子どもにとってより望ましい方法を、子ども自身が選択することが重要で、学校に行くかは問題ではありません。
そこを勘違いすると、後悔では済まない結果を招くかもしれません。
今回は以上となります。
もう入学式近くなってきましたし、不登校に関することも色々と話題に挙がる時期です。
いじめ関係の話題も事欠かない中々難しいご時世ですが、学校行く子も行かない子も、良い新年度となって欲しいです。
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