県央保健所『平成28年度ひきこもり家族教室』で体験発表してきました。
アニです。投稿の方は1カ月以上してませんでしたね。師走の忙しさでちょっとサボってました(-_-;)
さて、今回は12月16日の県央保健所『平成28年度ひきこもり家族教室』に参加してきました。
単なるイベント参加ではなく、アニ自身がお話をさせてもらいました。いわゆる体験発表というやつです。
アニの半生を赤裸々に語って来たので、全部話すのは恥ずかしいです。
ですので導入部ぐらいのお話でご勘弁ください。下記の画像はアニが作ったレジュメ的なものです。
アニは体験発表は初めてではありません。1人で話すのは3度目ぐらいになりますが、いつも最初に「自分のひきこもりに対する考え」についてお話させてもらっています。
理由は2つあります。
まずは体験発表はけっこう感情が先走って話がまとまらないことがあります。初めに方向性を示すことで、話が明後日の方向に行かないようにするためです。
もう一つは、“不登校”や“ひきこもり”と言っても各々考え方や捉え方があると思います。アニはその各々に正しさがあり、間違いがあり、そして尊重しないといけないと考えています。
なので、まず自分の考え方やスタンスをハッキリさせて「これはあくまで個人的な考えに過ぎないこと」「聞いている皆さん各々が持っている考え方を否定するものではないこと」を伝えるのが良いと考えているためです。
今回はその導入部であるアニの「自分の不登校ひきこもりに対する考え」に関してお話させてもらいたいと思います。
不登校ひきこもりは“偶発的な事故”のようなもの
ちょっと乱暴な言い方ですが、概ねそんな風に思っています。
不登校やひきこもりは別に誰かに「ひきこもれ!」と強制されてなった訳ではありません。
まして「ひきこもりってやる」と意気揚々となった訳でもありません。
あくまで様々な事柄(精神的に辛いこと、病気、生活環境、いじめ、障がいなど)が原因・遠因となって、結果的に不登校ひきこもりといった“現象”として表れている。
当事者も家族も誰も望んでそうなってはいない。そして誰の責任でもない。だから“偶発的な事故”だと思っています。
多くの親、特にお母さんたちは「自分の育て方が悪かったから」と自分を責めていることが多いです。
アニは全くそう思いません。
多くのお母さんは子育てにひたむきに取り組んでいます。でも不運なことに努力が結果に反映されないことはあります。
確かに「お前の子育てが悪かったからこうなった!」という当事者もいます。アニも一時期そう思って母を罵ったことがあります。
でもそれは行き場のない憤りを一番身近な相手にぶつけているだけです。
人生にはどんなに足掻いても報われないことはあります。不運な偶然の産物が不登校やひきこもりだと、アニは考えています。
さだまさしの「無縁坂」という曲の歌詞にこういう一節があります。
運がいいとか 悪いとか
人は時々 口にするけど
そういうことって 確かにあると
あなたを見てて そう思う
「運が悪かった。仕方ないよね」と思うのが、当事者・家族にとって良い結果を生むような気がします。
ちなみにアニはさだファンです。2006年に終わっちゃいましたけど、長崎で毎年8月に行っていたチャリティーコンサートもかなり初期のころから行っていました。
不登校やひきこもりに解決や克服はない
これを不登校、もしくはひきこもりのお子さんを抱えた家族の方に言うとすごくガッカリされるんですよね。特に不登校ひきこもりに直面してすぐの親の方には。
まあ「解決や克服はある」っていう支援者の方もいますし、そう思いたいのは親の人情ですから、仕方ないことではあるのですが。
アニというか、当事者視点からは「解決・克服」は幻想のように思えます。
もちろん理由はあります。少し考えれば至極真っ当な結論です。
経験を忘れることはない
不登校ひきこもりの理由は様々ですが、当事者や家族が壮絶な経験をすることは間違いありません。
本当に苦しい想いですし、行き場のない憤りを抱え、自分で自分を貶めることは日常茶飯事です。
そんな苦しい経験を忘れる訳ありません。
忘れているように見えて、古傷のように残る経験です。乗り越えているように見えて、ふと今起こったかのように思い出す経験です。
苦しい経験と上手く付き合う方法はあるでしょうが、「元に戻る」「忘れる」なんてことは決してないです。
“脱ひきこもり”したと思っているほど、足をすくわれる
アニは不登校もひきこもりも経験しています。
不登校を何とか脱して、通信制に通うようになって大学まで進学できた時、アニは「俺は脱ひきこもりした」「もう苦しい想いをしないで済む」と正直思いました。でもそうならなかった。
大学卒業後、けっこう精神的に無理をしていたアニは見事にひきこもり状態に陥りました。ハッキリ言って不登校のころより重症でした。
「またひきこもってしまった」と絶望したのは、想像に難くないと思います。
ひきこもりを克服しようと無理した結果、更に酷い状態に陥る。アニの知人はこれを「ひきこもりのリバウンド」だと言っています。
そもそもひきこもりの「解決・克服」って何でしょう?
正直、良く分からないです。
誰だってひきこもる可能性はある
アニはひきこもりを「偶発的な事故」だと捉えています。
悪い条件が重なり、何かの拍子でひきこもる可能性は誰にだってある。生きていれば無理せざるを得ないことってあるでしょう?
明日アニが再びひきこもるかもしれませんし、これを見ている皆さんがひきこもるかもしれない。
だとするなら「解決・克服」に一喜一憂するより、「心を楽にするような工夫」「苦しみと上手く付き合う方法」を模索した方が賢い。
最初から「解決・克服」を目指すような生き方は苦しいです。自分や周囲を追い詰める「解決・克服」といった考え方は隅に置いた方がいいんじゃないかと思うのです。
ひきこもりは生きるための選択
学校に行くとか、仕事するとか、日常生活がどうしても継続不能になるのがひきこもりだと思います。
不登校ひきこもりは“そうなった”という“現象”であり、継続不能になってしまったために選択した“手段”です。
これを原因だと思って「不登校やひきこもりをどうにかしよう」と考えると、大抵無理に学校に行かせたり、就職するように迫ったりと当事者を追い詰めることになります。
当事者を追い詰めると当然、悪い結果として反映されるでしょう。
ひきこもりは「現象・選択された手段」であるということを理解するのは、案外と難しいです。
家族の期待はほどほどに
当事者もそうですが、家族だって「脱ひきこもりしてくれないかな」と思うことは自然なことです。
一見、当事者が前向きな発言や行動をすると、家族が我が意を得たりとばかりに期待をしたり、過剰な手助けや助言をしたりするのはよくあることです。
親の人情というものは、そういうものだと思います。
しかし、当事者が“何となく思った”程度の発言や、本当は無理をして行動している場合、当事者にとって親の期待は非常に重たいものとなります。
そしてその期待を裏切られようものなら、親は大きな落胆を禁じ得ないでしょうし、当事者も申し訳ない気持ちで一杯になるでしょう。
当事者にとって親から前向きな関心を持たれないことは悲しいことですが、さりとて過剰な期待は当事者・家族の双方にとって良いことではありません。距離感は大切だと思います。
アニの母がその距離感についてこんなことを言っています。
「期待していないけど、希望は持っている」
アニの「自分の不登校ひきこもりに対する考え」いかがだったでしょうか?
それこそ賛否両論だったと思います。あくまでアニの個人的な経験に基づく考えですから、参考程度にでもしていただければ幸いです。
家族教室では、この話の後、アニの半生を通じて、なぜこんな考え方に至ったのか話させてもらいました。
詳しい内容は秘密です。だって恥ずかしいですもの(/ω\)
もう年末ですね。良いお年をお過ごしください!
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