アニが考える不登校ひきこもりの「良い支援者・悪い支援者」(加筆修正版)
アニです。
このブログは前投稿した同名タイトルと同じ内容ですが、アニ的にちょっと加筆したいところがあったので投稿しています。
加筆したところには「加筆部分」と書いてあります。
追記
この後にアニが思う『不登校ひきこもり支援に関わる苦手な人』というタイトルの投稿をしています。アニ個人的にはそちらの方が完成度が高いと思うので、良かったらそっちを見てください。
アニが独断と偏見で考える、不登校・ひきこもりの「良い支援者・悪い支援者」です。
これから書くことはアニの個人的意見です。あくまで参考程度に見てもらえると助かります。とはいえ賛否両論ありそうなテーマです。不快な思いをさせたらすみません。
悪い支援者とは?
アニは「不登校ひきこもり情報たーみなるinながさき」の管理運営している手前、不登校・ひきこもりの支援をやっている方と会う機会は多い方だと思います。支援を専門としている方には及びませんけど。色んな支援者の方と会っていると自然と「この人イイな」とも思いますし「ちょっと苦手…」と思うこともあります。
まずは「ちょっと苦手…」と思った支援者の方の特徴と理由を挙げたいと思います。
悪い相談員に見受けられる傾向
以下4つは特に「相談」の時に気をつけないといけない特徴です。この特徴を2つ以上感じたら相談相手として疑問に思った方が良いと思います(あくまでアニ基準)
1:説教くさい
「努力してがんばりなさい」とか耳が痛いくらい正論です。でも当事者にしても家族にしても正論で“どうしようもなかった”から相談とか支援を受けに来ています。
叱咤激励も時には大切かもしれませんが、希望が持てない悩みの深い相手には通用しません。
2:一方的な質問
「今までの仕事は?」「何が原因でひきこもったの?」「どうしてそう思うの?」とか、やたらと質問ばかりしてくる人がいます。
当事者・家族は相談に来ているのであって、別に自分の状況を説明しに来ている訳ではないですから。相談・支援の際に情報が必要なのは分かりますけど、あんまり質問が多いと尋問になって正直辛いです。
3:励ましが安っぽい/自分の話にする
「大丈夫だから」「君の話で思い出したけど、そう言えば~みたいなことあったんだよ」などですね。
自分が話したいことを真剣に受け止めてくれない相手に対して「この人に話してもダメだな」と思うことがあります。安易に「大丈夫」とか言われても「何が大丈夫なの?」と思いますね。
4:意見の押し付け・否定する
「それじゃダメだ」「こうした方がいい」とか、求められてもいない意見を言う場合があります。まさに余計なお世話です。
総評すると4つとも「人の話を聞く気がない」「自分の話をしたい」というのが特徴です。相談がそもそも成立していません。
5:訳の分からない数字でのアピール(加筆部分)
確かに実績っていうのはとても重要です。
ただ「うちの支援を受けると脱ひきこもり率90%以上!」なんていう謳い文句は正直ドン引きしてしまいます。ネットの広告とかで見ませんか?
まず何を基準に「90%以上」なのか?「脱ひきこもり」の定義は?
不登校ひきこもり支援ってそういうものではないはずです。
ちなみに、このタイプは数字以外でも実績をアピールすることがあります。
ある種の権威や風評に意図的に擦り寄ったりもします。偉い人と仲良しアピールですね(本当に仲良しの場合もありますが)
自身のスタイルに疑問を持っていない
正直に言うと当事者・家族が求める支援と、支援者が提供する支援が上手くマッチするのは“運次第”です。ある支援に対して、ある人は「よかった」と思っても、とある人は「イマイチ」と感じることは頻繁にあります。こればかりは実際に支援を受けてみないと分からないことです。
支援は万能ではないです。
ただ「上手くマッチングする可能性は運次第」ということを支援者の側は認識しておかないといけません。
「自分の支援は間違いない」と思い込んでいると、求める支援と提供する支援が不一致を起こした時「合わないのは相手が慣れてないから」など見当違いなことを考えて、合わない支援を継続することがあります。
悪くすると「絶対に良いものだから」と支援を強制したり、「自分から離れたら酷いことになる」と脅してみたり…あくまで極端な例ですが、占い系の詐欺ではよくある手口らしいです。
また、自分に疑問を持たない支援者は、他の支援を紹介することを嫌う傾向があります。もっと酷いと他の支援者を否定することもあります。
支援において「批判的」であることは悪いことではないですが、「否定」はやっていけないことです。何故なら当事者・家族など支援を求める人たちの選択肢を狭める結果となるからです。
支援者は自分の支援に自信を持ちつつ、それでいて自分の支援が合わない可能性、自分の支援の限界を考えるという、難しい感覚が要求されます。
親密が過ぎる
一見問題なさそうですが、熱心な支援者ほど陥り易い罠です。
当事者・家族の悩みは複雑で深いものです。悩みを正確に理解するためには、悩みをしっかりと聞きつつ、客観的に見つめないといけません。
相手の話に耳を傾ければ向けるほどに距離は縮まります。もちろん親密の度合いも増します。しかし、同時に悩みを見つめるために必要な客観性を失うことにもなります。
相手の悩みに共感し過ぎて自分もその悩みに囚われてしまい、精神的に追い詰められて支援者を続けていけなくなる人は多くいます。
また、支援を利用する当事者・家族の側も、あまりに距離が近くなり過ぎると「何でもして大丈夫なんだ」という悪い意味での甘え・期待が芽生えます。そして、その甘え・期待に支援者が応えられないと“裏切られた”と感じることは珍しいことではありません。
例えば、深夜にも関わらず個人的に電話するなどです。支援者にも生活があります。自分のプライベートを削って支援に関われる人はほんの僅かです。
距離が近過ぎることは、当事者・家族と支援者の互いにとって不幸な結末を生みます。限度があるということです。
あえて親密さを求めるのであれば、それは支援者ではありません。自分を一番大事に思ってくれる人です。
不公平である
決して「平等」ではない点に注意してください。
支援者にとって、支援を求める側である利用者(当事者・家族)は公平に扱わなければなりません。
利用者には各々悩みがあり、内容も様々、現状も様々です。利用者に応じた支援を提供する訳ですから平等に接することはできません。しかし「あの子にはしてくれたのに…」「何で自分だけ」と平等でないことに不満を持つことは自然なことです。
ここで平等でないことを説明することが必要となってきます。利用者各々の満足する支援を提供しつつ、平等でない理由を説明ないし相応の対価を与えることで不満を抑える。これが公平性だと思います。
例えば、就労移行支援を目的とした作業所などでは、利用者ごとに労働時間や労働内容に差が生じることは頻繁にあることです。利用者ごとに得手不得手とする事柄は違います。支援者の側が仕事ができる人ばかりに仕事を回すようになると、仕事を多くする人は「何で自分ばっかり仕事をするんだ」と思い、仕事があまり出来ず少なくなってしまった人は「何で自分にはちょっとした仕事しか回ってこないのか」と思います。
これは支援者が一部の利用者を“便利使い”した結果です。こうなっては仕事を多くする人、仕事が少ない人どちらに合わせても「悪平等」となるでしょう。残念ながら解決は難しいでしょう。
確かに仕事の場では優劣があって然るべきかもしれません。しかし支援の場で必要なのは「公平性」です。「公平性」は常日頃から気をつけておかないと保てない繊細なものです。
柔軟さがない/保身第一
支援者は何かしらの団体に所属していることが多いです。行政に関連する団体や民間の組織。その団体の立場やルールを守らないといけません。
しかし支援を求めている側にとっては関係のない話です。立場やルールを自分たちより優先されては信頼のしようがありません。
支援者が少しでも「失敗したくない」「ルールの方が大事」と思って接していると、当事者・家族はすぐにそれを察して信頼しなくなります。一度失った信頼は絶対に戻りません。いつまでも心のどこかに疑心の種があるものです。
確かに立場を配慮すること、ルールを守ることは必要なことです。しかし立場やルールの中で出来ることはあるはずです。相手のために少しでも出来ることを探し、柔軟に実行する。これこそが信頼を生むことにつながります。
仮に失敗して短期的に失望させたとしても、立場やルールの中で頑張ってくれたことを当事者・家族は忘れません。時間が経てば必ず信頼を回復し、それ以上のものを得ることができます。
“人助け”に酔っている/偽善を自覚していない
とても言葉は悪いですが、人助けは快楽を得やすいものです。
「困っている人を助ける」という明快な正義。「助けることができる自分」という全能感。自分のために人助けするのですから「偽善」に見えるでしょう。
でも、必死に他人のために尽くしているとしても、少しも「偽善」がないと言ったら嘘になると思います。感謝されたいというのは人間の本能です。
人助け、つまり不登校・ひきこもり支援においても同様のことが言えます。
仮に支援が「偽善」であっても問題ではありません。問題なのは自分の「偽善」に気づいていないことです。
支援者が自らの欲求を満たすために、いつまでも当事者・家族を利用者として縛る。人助けは困っている人がいないと成立しません。
当事者・家族の目的は少しでも悩みを解消して、社会の中で生きてゆくこと、自立することです。支援者を必要としなくなることです。
そして、そういった支援者は“人助け”に熱心なので、助けられる側から見ると頼れるように感じることが多いです。当事者・家族の側も依存し易い相手と言えます。
こうして助ける人と助けられる人の依存関係、いわゆる「共依存」の関係が出来上がります。
「共依存」の関係から抜け出すのは容易ではありません。こうなると当事者・家族の本来の目的である自立は遠退きます。
数字による実績・評価を意識し過ぎている(加筆部分)
世の中で評価されるためには数字によって明快に示せる実績が必要です。これは紛れもない事実です。特に委託事業などを行っている団体の職員さんは身に染みるのではないでしょうか?
このホームページならアクセス数。アニが関わっている不登校・ひきこもり情報誌なら販売数。相談窓口なら利用者数など。
しかし数字で支援の価値評価が出来たとしても、それが本当に当事者・家族のためになっているかは別問題です。
例えば、ある当事者が相談窓口を頻繁に利用しているとしましょう。これは利用回数という実績になります。ただ頻繁に来るということは、次のステップを提示できていない、または支援に繋いでいないということでもあるかもしれません。
本来ならば数回の相談を経て、適した支援へ繋ぐのが相談窓口の役割です。あまりに過度に利用されるということは、決して良い結果を反映している訳ではないと思います。
しかし、支援者のジレンマとして実績は評価されたいという気持ちはあります。そこで意図的にないにしろ、例のように頻繁に利用してくれることに甘えて、現状を変えることに若干の恐れを感じる。長すぎる相談期間には疑問を持つ必要があるかもしれません。
今回は相談窓口の例でしたが、他の様々な支援においても同様であると言えます。
アニの個人的な考えですが、優れた支援者の方ほど数字と言うものを冷静に、時には冷淡と思えるほどに見ているような気がします。
重要なのは全体的・総合的にどうなってるか。各々の数字では大したことなくても、全体の数字から考えると実績を上げている。そういう感覚が備わっている人が多いと感じます。
良い支援者とは?
『悪い支援者でない』ことだと思います。そうならないように努力する人です。
ご覧になった支援者の方、少しは『悪い支援者』に該当する項目があったのではないでしょうか。なかったという方は相当な方でしょう。アニは幾らか該当してくれた方が人間味を感じます。
支援者も人の子です。過ちはあると思います。
ただ「自分は間違っていないか?」と日頃から気をつけて行動することはできます。
「ちゃんと自分は相手の話を聞いているか?」
「今の支援内容は適したものだろうか?」
「相手に寄り添い過ぎてはいないだろうか?」
「公平さを損なってはないだろうか?」
「柔軟に対応して、やれることをやっているだろうか?」
「共依存になってはいないだろうか?」
「相手のためになっているだろうか?」
これだけ自分を戒めている支援者であれば、もう十分に『良い支援者』であると感じます。
以上で終わりです。
話の内容的に「良い支援者はいないのか?」と思った方も多いかもしれません。もちろん『良い支援者』の方は多くいます。しかし残念ながら『悪い支援者』が存在するのもまた事実です。
最初にも言いましたが、これはアニの独断と偏見に基づく考えです。色んな意見の一つに過ぎません。
結局は「良い」も「悪い」も自分で判断しないといけません。自分で見極めてください。
当事者の方、家族の方、そして支援者の方、この機会に自分なりの支援者の良し悪しや在り方など、一度考えてみてはいかがでしょうか?
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