災害とひきこもり。役割を持つということ

必死なトリ サイズ小ゴールデンウィークですね。この休暇を利用して熊本へボランティアに行っている方もいると思います。

熊本地震は本当に痛ましい災害でした。まずは亡くなられた方へご冥福をお祈りいたします。そして一日でも早い復興と、被災者の皆さまが心身ともに安心できる日常が戻りますことを切に祈っています。

アニの親戚・知人も熊本に住んでいて被災しました。幸いみんな無事だったので安心しましたが、とても苦労しているようです。

不登校・ひきこもりの当事者にとって災害は現状が一変する一大事です。何しろ自分の最後の砦が破壊され、否応なしに外へ出ることを余儀なくされるのですから。仮に日常が戻っても今まで通りとはいきません。

アニは今回の地震に接して『親の会たんぽぽ』の講演会で聞いた話を思い出しました。講演者は阪神淡路大震災で被災したひきこもり経験者の方で、ひきこもり状態の時に被災したそうです。ちょっとうろ覚えなので申し訳ないのですが、大まかな話はこうです。

講演者の方は被災するという異常事態に接して、自ら率先して避難所の活動などに参加したそうです。そうせざるを得なかったのでしょうが、自然と他人とも接し助け合うことができたそうです。ただ、復興が進むにつれて徐々にひきこもり状態に戻っていったそうです。

その理由は「自分の役割がなくなってきたから」という話でした。避難生活は各々が助け合いながら、自分の役割を全うしないといけません。しかし復興が進むと役割がなくなります。そして自然と被災前の状態に戻ってしまった。

この話を聞いて絶対にして欲しくないことは「災害など強制的に家から出せばひきこもり状態から脱することができる」と勘違いすることです。断じて違います。被災した故に精神的に追い詰められてひきこもり状態になってしまった人もおられます。講演者の方は幸い何とか避難所生活が可能でしたが、どうしてもできない人だっています。

アニ個人の話ですが、アニはひきこもりが一番酷く精神的に追い詰められていたころ「災害にあって死んだら楽なのに」と本気で思っていました。今回の地震で亡くなった人、その親族の方から見れば本当に命の尊さが分かっていないと非難されても仕方ない発想です。しかし、不登校・ひきこもりで追い詰められている状態では、そう思うのは不思議なことではないのです。

この話で重要なのは「役割があれば他人と接することができた」という点です。災害という突発的で異常なことであったとはいえ、役割がハッキリとしていれば社会生活を過ごせたのです。

「どうすれば不登校・ひきこもりから脱することができるのか?」と質問を受けることがあります。正直言って分からないです。しかし「役割を持つ」ということが、一つのキッカケになると、この話から察することができます。

例えば家事の一部を任せてみるとか、自分では分からないことの相談相手にするとか、日常・非日常問わず色々と役割は転がっていると思います。不登校・ひきこもりの当事者に対して、つい何でも世話をすることは多いとでしょう。しかしあえて当事者を頼ってみる。役割を与えてみるのはどうでしょうか?もしかしたら想像以上に応えてくれるかもしれません。

アニの意見ですが、社会生活をするということは「社会の中で役割を果たす」ということだと思います。例えばボランティア活動が不登校・ひきこもり状態を緩和するのに役立つケースは非常に多いです。支援団体の中にはゴミ拾いなどボランティア活動を支援プログラムに組み込んでいるケースもあります。

逆に言えば社会の中で役割を見出せなかった場合、不登校・ひきこもりに陥ることは十分にあり得る話です。

本当にちょっとしたことでもいいので、家族の方であれば「役割を与える」、当事者の方であれば「役割を見つける」ことを心掛けてみてはどうでしょうか?


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