不登校ひきこもりを改善するには「各々の状態に応じた、各々の方法を、各々で見つける」ことが必要です。ですので「絶対に効果がある」という方法はありません。しかし「悪い感じになりやすい」ことは割と分かっています。そのいくつかを紹介したいと思います。

 

※内容の性質上、家族の方などに対して結果的に責め立てるような文言がいくつもあります。意図していることではありませんが、心理的に苦しくなることが多々あると思います。

「今の自分には心の余裕が無い」と思った方はご覧にならないことをお勧めします。

1:強引に外出させる

不登校ひきこもりの最大の特徴として「外出を避ける」ことにあります。当事者は何かしら必要に迫られてしか外出しないものです。

当事者を心配している人にとっては「外出しない」というハッキリと分かる行為は見ていて非常に辛いものですし、また原因だと勘違いしやすいものです。「外に出ないからどんどん悪くなっていくんだ」「外に出ればまた人と接するようになる」と思ってしまい、外出させる口実を作って連れ出そうします。「旅行に行こう」「友達と一緒に遊びに行ったら」などですね。

 

しかし当事者にとって、ほとんどの場合「有難迷惑」なものです。外出するかしないかは当事者が気持ちと折り合いをつけて判断するものです。自分のタイミングというものがあります。それが他人から押し付けられたタイミングだったらどうでしょうか?急に後ろから背中を押されたようになってしまいます。

当事者は人目に触れたくないことがほとんどです。「何もしていない自分の姿を他人に見られたら…」と勘繰るのは当然です。また当事者は今の自分に失望しており、情けないと思っていることが多いです。自分の情けない姿を誰が見られたいと思うでしょうか?

 

確かに外出したい気持ちがある当事者には渡りに船かもしれません。だとしても外出の是非を判断するのは当事者がすべきことです。

時機を見て、外出をすることを「提案」するだけにしましょう。断られても失望しないでください。何事もタイミング次第です。

2:甘え・怠けという扱い

特に不登校ひきこもりの初期に言ってしまいやすい言葉「しっかりしろ」「もっとがんばれ」「他の子を見習え」などですね。激励の言葉とだと考えている方がほとんどだと思いますが、これは当事者を蔑む罵りの言葉です。

 

「しっかりしろ」となぜ言ったのでしょうか?それは「しっかりしていない」からです。ではなぜ「しっかりしていない」と考えたのでしょうか?それは家族など周囲の人に対して「甘えている」と思っているからです。

では本当に「甘えている」のでしょうか?不登校ひきこもりは何らかの理由で社会と距離を取らなければならない緊急避難的行為です。当事者は心理的な危機を避けて「ひきこもっている」訳ですから、少なくとも「甘えている」訳ではありません。

しかし一見すると何もしていないように見える。周囲の人間と比較するとさらに「甘えている」「怠けている」ように見えてくる。それをどうにかしたいと思うからこそ「しっかりしろ」「もっとがんばれ」「他の子を見習え」などと言葉が出てしまうのです。

 

不登校ひきこもりで「甘えている」人はいません。原因はさまざまですが、精神的に我慢を重ねて限界を迎えてしまったことがほとんどです。「怠けている」人も見受けられません。自分一人で頑張った結果、心身をボロボロにするケースが多く見られます。

不登校ひきこもりになりやすい性格として「生真面目さ」が挙げられます。学校や職場で模範的な人間として見られていた人が不登校ひきこもりになる。非常に多いケースです。

まして発達障がいなど先天的な要因が引き金となって不登校ひきこもりになった場合、それは「甘え」や「怠け」だからでしょうか?

 

不登校ひきこもりの当事者は言葉の意図に極めて敏感です。不意な言葉から相手の意図を察します(過剰に気にすることはありますが)。

もし家族、特に親からこのような言葉を掛けられたら当事者はどう思うでしょうか?「自分は甘えているのだ」と自分を責め、より自信を失ってしまうか、もしくは「こんなに頑張っているのに何で理解してくれないの?」と親を信頼しなくなる。いずれにしても当事者を傷つける可能性が高いです。

 

確かに「がんばれ」などの叱咤激励は言ってしまいたくなるのが人情です。それしか言葉が浮かばない時もあります。ですが堪えてください。叱咤激励は時と場合によっては逆効果になります。

そして当事者が何かしらに打ち込んで頑張っている時に初めて「がんばってるね」と言ってあげてください。これは激励の意味だけでなく、同時に頑張りを認めている意味があります。認める言葉は当事者の自信につながりやすい言葉です。少なくとも叱咤激励よりは効果があります。

3:一つの課題を乗り越えた後の過剰な期待

当事者が何かやり遂げた後、周囲はさらに何かできると期待してしまうものです。例えば「一緒に外出してくれた」「保健室登校してくれた」「日雇いバイトをこなせた」「運転免許を取った」など当事者が一つのことをやり遂げたとします。

これを見た周囲は「次は別の遠い場所に行こう」「半日でもいいから教室で授業を受けてほしい」「もうちょっと難しい仕事でもいける」「運転免許が取れたのだから仕事だって」とさらに上を目指すように仕向けます。

 

少し待ってあげてください。確かに一つステップを踏めたかもしれません。しかし次のステップへ行く体力が果たして残っているでしょうか?

今までできなかったことをやり遂げるとは相当な力を必要とします。ちょっとしたことであっても、ステップを踏み出すための気力はすぐには戻りません。

 

一つのことを達成して疲れ果てているのに、さらに何かをさせようとする。これは果たして当事者のことを考えているでしょうか?

まず当事者に対してやるべきことは「労う」こと、そして頑張りを「認める」ことです。十分な休息を与え、再び何かをしようとする気力が戻った時、初めて次のステップのことを考えることができるのです。

 

挑戦から達成。達成から休息。休息から次への挑戦。この繰り返しが当事者の自信を回復することだと思います。周囲の焦りは当事者への心理的圧力になり、結果としてこの回復のサイクルを阻害する恐れがあります。何事も慎重に。

4:登校を強制する

前記「1:強引に外出させる」と同じようなことですが、こちらのほうが厄介で深刻な結果を招くことが多いように思います。当然ですが不登校に限った問題です。

 

特に親にとって本来学校に行っている時間に家でゴロゴロしている我が子を見るのは耐え難いものがあります。「なぜ家の子が…」と思うのは自然なことです。そこで学校に行かせる努力をしようとします。

学校の送り迎えをしたり、友達に一緒に学校に行ってくれるように頼んだり、叱咤激励してみたり。前のものまだ良識的ですが、「将来がどうなってもいいのか?」と脅してみたり、時にはお金や物で釣ることもあるようです。

 

子どもの状態を見て、冷静さを失うことは仕方ないことです。しかし一度冷静さを取り戻してみてください。そして自分の心を問い直してみてください。

「登校」=「子どものため」だと本当に思っているか?

「登校」=「自分(親)の安心」になってはいないか?

 

子どもは好んで「不登校」になっている訳ではありません。学校に行かないのには理由があります。

友達の輪に入れない、居場所がない、いじめを受けている、授業がわからない、先生に厳しいことを言われるなど、親の知らない事情がたくさんあります。仮にそれらを解決したとしても“覆水盆に返らず”です。元に戻ることはないとあえて断言します。

 

これは私の個人的な見解ですが、他人への過剰な期待も良くありません。

子どもの友達にもすでに築き上げた友達の輪というものがあります。我が子だけを気に掛けるだけとはいかないものです。なにより、その友達の輪に新しく仲間として入るというのは、今まで登校してなかった子どもにとってハードルが高いことです。

学校の先生は残念ながら万能でありません。我が子以外の多くの生徒を教え育まなければなりません。業務は多忙を極めます。そんな中で我が子だけを見るという行為には限界があります。どんなに理想的な先生であってもできないことはあるものです。(不誠実な先生はそもそも論外ですが)

 

過剰な期待は失望を呼び込みます。失望すると頼るべき時に頼れなくなります。自分のために相手の事情を理解する必要があるのです。

ただし過剰な配慮は不要です。「学校の先生に悪いから…」なんて思うことはありません。何事も子どもを第一に考えてください。

 

いずれにしても登校を強制することは悪い結果になると言わざるを得ません。しかし、子どもの「欠席」を毎日学校へ連絡しなければならないのは、心理的にとても苦痛であることだと思います。そこで子どもが「出席」する時だけ連絡するよう担任の先生と取り決めてはどうでしょうか?学校と適度に心理的な距離が取れ、毎日子どもに「学校行かないの?」と聞く必要もなくなります。

 

登校することも、不登校でいること、どうするかは当事者である子どもが判断することです。子どもは「このままでよい」と心底で思っている訳ではありません(つい口にすることはありますが)。ただ考える心の余裕がないのです。その余裕を生む環境を整えることが重要であると思います。

 

最後にあえて誤解を恐れず「学校が人生の全てじゃない」「学校以外の道もある」ことを言い添えておきます。

5:いじめの犯人探し

不登校において一番やってはいけないことです。私が見聞きする限り最悪の結果を招きます。

 

いじめを原因とする不登校の場合、必ずと言ってよいほど“犯人探し”をするケースが多くあります。いじめ加害者を見つけ謝罪させることで不登校状態が解消されると考えるためです。しかしながら犯人が特定され、謝罪を受けて登校したケースを私は聞いたことがありません。理由は主に2つあります。

1つに不登校の当事者自身が犯人探しを望んでいないこと。

特に当事者が学校への復学を望んでいる場合、人間関係が円滑な状態で復学したいという思いは強くあります。大抵の場合、犯人は身近な人間であることが多く、学校生活で距離が取り難いことが多いです。友達の輪に戻るために多少辛くとも、今までのことに目を瞑ることは不思議ではありません。

しかし家族から学校へ犯人の存在を報告し犯人探しをすると、当事者は「チクった」として学校で苛烈な扱いを受け、いじめは悪化します。犯人がクラスメイトに影響力が強い場合、クラス全体に飛び火することもあるでしょう。一般的な倫理観ではいじめ加害者が悪いことは確かです。しかし仲間内の倫理観では密告者の方が重罪である場合は多々あります。こうなっては復学などできる訳がありません。

そして当事者は密告をした家族を酷く恨みます。信頼関係は破綻し、何も言わない、何も頼らない関係になることが大半です。

仲間からは密告者と謗られ、いじめは悪化、家族との信頼はなくなる。まさに最悪の結末です。

 

例外として、当事者が相当な恨みを持っており、いじめ加害者からの謝罪を求める場合があります。これはすでに復学の望みがない、犯人との人間関係が切れている(切れてもかまわない)ためだと思います。

2つに周囲の人間が安心してしまうこと。

犯人探しの結果、仮に登校したとしても再び不登校になることは多いです。前記の理由の通り、いじめは悪化の一途を辿るからです。「それなら学校の先生がしっかり注意していれば良いのではないか?」と思われるかもしれません。残念ながらそうなりません。

犯人探しをして謝罪をさせた時点で家族も学校の先生も「解決した問題」になってしまいます。“油断”するのです。そして謝罪の後は一旦いじめが収まったかのように見えます。しかし実際には先生に見られないような“巧妙な”いじめを受けるようになります。大抵のいじめは先生の目が届かないところで行われているものです。

“油断”と“巧妙”が重なってより過酷ないじめを受けることになります。結果、さらに悪い状況となって不登校となります。

 

「犯人探し」は最悪の一手です。学校の先生といじめについて相談する際は、犯人探しを決してしないよう念を押すことをお勧めします。あくまで担任の先生が子どもに気を配る、悩んでいるようなら他の生徒に分からないよう相談に乗る。その程度が良いかと思います。

 

以上5つの例は私が頻繁に見聞きしたものであり、そして私の見解を述べたに過ぎません。しかし参考程度には十分役に立つものだと思います。

 

最後に、これをご覧になって心苦しい思いをされた方も多いと思います。特に家族の方はそうであると思います。なにとぞお許しください。