医療と福祉を考える長崎懇談会『「おーい、中村くん ~ひきこもりのボランティア体験記~」著者対談トーク』に参加してきました
アニです。
今回は医療と福祉を考える長崎懇親会主催の『「おーい、中村くん ~ひきこもりのボランティア体験記~」著者対談トーク』に参加してきました。
『おーい、中村くん』とは著者・中村秀治さんが、ひきこもり生活を経て、東日本大震災の災害ボランティアに参加し、その経験をまとめた体験記です。
今回の対談トークは、著者の中村さん、 客席におられた中村さんのお母さん、お二人を支援し親交の深い、佐世保で不登校支援を行っている山北眞由美さん(NPO法人フリースペースふきのとう)。
この三名の方々に、聞き手である長崎新聞社編集部デスクの坂本文生さんが話を投げかける形で行われました。
ひきこもりから東日本大震災へボランティアへの参加(中村さんのお話)
まず中村さんから東日本大震災の災害ボランティアに参加した経緯、実際に参加してみてのお話などがありました。
中村さんは小学校6年生のころより不登校となり、夜間高校へ進学し、就職したものの10カ月で仕事を辞め、ひきこもり状態となりました。
不登校になった理由はご本人でも分からず、ただプレッシャーのようなものが心の中にあったそうです。
就職した仕事も馴染めずに、辞めざるを得なくなり、その後5年ほどひきこもり生活が続くことになりました。
自分の無価値さ、親に迷惑をかけていることへの罪悪感など。苦しい悩みを抱えていたそうです。
2011年3月11日。東日本大震災が発生。
震災の様子を見ていた中村さんは震災の現場の様子や、実際に何かをできないかと考えるようになり、お母さんへ災害ボランティアに参加したいと言ったそうです。
お母さんのとある知人の方が丁度ボランティアへ行くことを考えており、その知人の方と一緒に宮城県へ行くこととなりました。
9月2日からボランティア活動を開始し、最初の2週間ほどは家に入り込んだ泥の掻き出し作業を行っていました。
中村さんは人とコミュニケーションすることを苦手と考えていて、ボランティアの方との付き合い方に不安を覚えられていたようです。
ただ、ほとんどの災害ボランティアの方は1日か2日で帰られるので接点がなく、肉体労働のボランティアということもあり、意外にも気が楽だったそうです。
約2週間の泥の掻き出しのボランティアの後、宮城県塩釜市に移動しました。
こちらでのボランティア内容は仮設住宅など、被災者の方へ物資を届けるなどの内容でした。
否応なしに人と接しなければならないので、コミュニケーションを苦手と感じている中村さんにとっては抵抗感のある内容であったようです。
そんな中、とある被災者の方に怒鳴られたそうです。
「自分が悪いんだ」と酷く自分を責められたそうですが、一緒にボランティアをやっている主婦の方から「今だけは余裕のない人もいる。君のせいじゃない」と言われて、思い直すことになったそうです。
決して楽ではないながらも、ボランティア活動継続して2カ月ほど経過したある日。いつものように仮設住宅のおばあちゃんに「何か不足しているものはありますか?」と尋ねました。
おばあちゃんは「物は色々ともらえた。でも自分には周囲に知り合いもいない。あなたが来てくれてうれしい」と返答がありました。
「ひきこもりで苦しんで悩んでいたことを、このおばあちゃんも同じように抱えている。自分は無価値だと思っていたが、そうではなかった」
仮設住宅の人たちから「おーい中村くん」と声を掛けられるまでになって信頼されるようになり、中村さんは11月25日までの3か月に及ぶボランティア活動を終えました。
中村さんの話の最後に、家族が自分を受け入れてくれたこと、ボランティアをしたいと言っても許してくれたこと、見捨てず見守ってくれたことに感謝しておられました。
対談トーク
著者の中村さん、ふきのとうの山北さん、中村さんのお母さんを交え、聞き手の坂本さんからの質問に答える形で対談トークが行われました。
質問ごとにまとめてみました。多少話が前後したりしてますが、似たような話はまとめています。
中村さんが「災害ボランティアに行きたい」と言って、実際に行って、どう思った?
これは中村さんにではなく、お母さんに対しての質問となりました。
お母さんは、それまでの中村さんを見て「生きているのを諦めているのでは?」と常々不安に思っていたそうです。
しかしボランティア参加の希望を聞いて「行きたいんだ」と思われ、できるだけ支えようと思ったそうです。
災害ボランティアに行こうとしている人はいないか周囲に声掛けをされ、たまたま中村さんと一緒に行くことになった知人の方につながったそうです。
その知人の方は非常に穏やかな方で「この人なら息子を頼んでも大丈夫」と考えて送り出されたそうです。
ただ知人の方は一週間で帰られる予定だったので、中村さんもそのくらいで帰ってくると考えていたそうが、実際には3カ月という長期のボランティアとなってしまいました。
ただ、ボランティア先より届く中村さんからのメールを見るなどして、家にいる時より存在を身近に感じたのだそうです。
ちなみに、中村さんからのメールは、一緒にボランティアをしていた方から「連絡した方がいい」と言われたからではないかとのことです。
「災害ボランティアに行きたい」とお母さんに伝える時、どんなことを考えていた?
中村さん自身、最初は「行く」というよりは「行きたい」という願望だったそうです。
それをお母さんに話、受け入れてくれて、徐々に「行こう」と思えるようになっていったそうです。
ボランティアに行って、イメージ通りだった?それとも…
中村さんにとって一番の課題に感じていたものはボランティアセンターでのコミュニケーションです。ボランティアの方だけでなく、センターのスタッフの方もおられます。
ただ、想像していたより大丈夫だったそうです。
ひきこもりという事で変な目で見る人もいないですし、作業も肉体労働だったのも幸いしたようです。
その後、ボランティアの内容が変わり、仮設住宅の人たちとのコミュニケーションが必要となった時はさすがに辛かったようです。
仮設住宅のあたりをウロウロしたりして、中々声を掛けられないこともあったそうです。
それでも「自分はボランティアに来たのだから」と奮い立たせて、一緒にボランティアをしていた主婦の方などに励まされ、何とかやれたそうです。
どんな経緯で出版することになったのか?
不登校ひきこもりの専門家として知られる横湯園子さん(中央大学元教授)から「本に残すべき」と勧められたのが最初だそうです。
お母さんと山北さんは「本にしよう。みんなに読んで伝えたい」と思われたそうです。
しかし中村さんは「出版にはお金かかる」「そんな価値ない」「仕事もしていない自分がそんなこと」と反対されたそうです。
それでも熱意に押されて、自身や山北さんへの周囲だけというつもりで文章を書いたそうです。
自費出版すると周囲の反響が非常に大きく、初版が直ぐに売り切れると増刷をしたそうです。
そうなっても中村さんは難色を示したようで、出版の段取りや宣伝・販売を支えていた山北さんとケンカすることもあったそうです。
文章が大変巧みで、挿絵も自身で描かれている。コツなどあるのか?
中村さんは元々、創作活動をしていたそうです。文章もイラストもそのころから磨いてきたそうです。
『おーい、中村くん』は自身の記憶だけでなく、写真、お母さんとのメール、ボランティアセンターに提出した報告書、メモなど、記録に残っていたものから作り上げたそうです。
最初は紙に書き出し、骨組みを作ってからPCで話の肉付けをしていった感じだそうです。
分かりにくい文章は避けて、どんな人にも分かりやすい文章を心掛けて作ったそうなので、それが評価されるのは非常に嬉しいと仰っていました。
本を書いて、印象に残った感想は?
中学生の女の子から、(おばあちゃんの話など)自分も一緒のことを考えているとの感想をもらった時。
自分や作中のおばあちゃんが抱えている悩みは世代など関係なく、普遍的なものなのだと感じたそうです。
本の中にお母さんが知らない本音などありますか?
お母さんは、中村さんが悩んでいることは切々と分かっていたそうです。
ただ、生きているのが罪であるかのように罪悪感を抱いていることまでは知らなかったそうです。
本を出版してみて、自身の変化はありましたか?
横湯さんから「本にして」と言われてから実際に本となるまで2年が掛かった。
最初は言われてもそうでもなかったのが、徐々に書くことが心の中で大きくなって。
また周囲の人から書いて欲しいとも言われ、書くことが許されると、受け入れられると感じるようになったそうです。
対談トーク・質問コーナー
ここからは中村さん、お母さん、山北さんが参加者の方からに質問を応えたものです。
ひきこもりの子を抱えている。どう向き合えばいい?
まずお母さんから応えられました。
お母さん自身は中村さんが不登校になり、正直学校に行って欲しい、将来がどうなるか不安と考えておられたそうです。
ただ中村さんから「今がつらい」と訴えられ、今が大切なんだと気づかされたそうです。
今の状態を認める、存在を認めることが大切だと仰っていました。
次に中村さん。
中村さんは、「もう知らない」など、自分を見捨てるかのような言動はイヤだと話されました。
自分を見守ってくれること、存在を認められることが重要だそうです。
他の親の方から「君は良いね。(自分の子と違って)大変そうじゃない」と話されることがあるそうです。
中村さんとしては、自分も何かしらの形で追い詰められていたら、とんでもないことをしたかもしれないと仰っていました。
声掛けって必要?
中村さん的には、日によって気分が全然違うそうです。
声掛けが重く苦しく感じる時もあれば、うれしい時もあるそうです。
立ち直るキッカケは?
長年不登校ひきこもり支援に携わる山北さんがお応えになりました。
立ち直る、力が湧いてくるというのは本人の変化で、周囲の期待から変化するものではない。
当事者は、力が湧いてきても不安を抱えながら動くもの。
周囲は当事者の「やりたい」を「そうできればいいね」とサポートすることが重要だそうです。
父親の立場から、子どもにどう向き合えばいい?
こちらは不登校ひきこもりを抱えるお父さんの会である『おやじの会』を主催されている山北さんが応えられました。
講演会や研修など、お母さんたちは積極的に発言したりして、ある種の形振り構ってない感じがある。
対してお父さんたちは真剣にメモを取ったりしている。仕事をして社会とつながっているためか、どこか躊躇のようなものを感じる。
こういった違いはあるとのことです。
行政につながることを本人が嫌がっている。どうすればいい?
おそらく行政関係者の方からの質問のようでしたが、山北さんが応えられました。
山北さんとしては、各家庭で環境が違うので難しいが、少なくとも家族も本人も悩んでいるのは事実。
話し相手になりそうな人を見つけ、行ってもらい、心が落ち着いてから徐々につながりを持てば良いとの応えでした。
最近、8050問題や事件などでひきこもりが注目を集めているが、地域の大人たちがすべきことはなに?
中村さんがお応えになりました。
ひきこもりが世間的に注目を浴びているが、それはひきこもりだからではなく、誰にでもあり得ること。
重要なのは家族が孤立せず、周囲とつながりを持つことだそうです。
ボランティアに行って何か変わった?
こうやって人前で話すこと自体が変化だそうです。
今後、何をしたい?
創作活動は継続して行っていきたいとのことです。
以上で終わりです。
『おーい、中村くん』をもっと知りたい方は買って読んでください。フリースペースふきのとうにて受付しておられます。
災害ボランティアに行くこと自体凄いですが、それを体験記にまとめることも凄いですね。
長崎新聞記者から認められる文才ですから、評判になって当たり前なのかもしれません。
ただ、中村さん自身は決してお話が上手い方ではありません。
それでも、少し感極まりながらも、伝えようとされている姿が印象的でした。
そういう姿を見ると、体験記もリアリティがあるというか、本物なのだなと実感しました。
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