寄稿 『もぐり 第6回 不登校・ひきこもり相談会』

アニです。

『不登校・ひきこもり支援「もぐり」』では、今年から不定期で『不登校・ひきこもり講座&相談会』を実施しています。今回は個別相談会となっています。

もはや恒例になっていますが、第1回目から引き続き感想を『不登校ひきこもり情報たーみなるinながさき』へ寄稿してくれました。

前回の『不登校・ひきこもり講座&相談会』の感想についてはこちら

寄稿『もぐり 第6回 不登校・ひきこもり相談会』

子どもが動けなくなってしまう時、ひとつの心の動きとして“理想の自分と現実の自分とのギャップに苦しむ”ということが考えられます。

例えば、友達関係がうまく築けないとか、フルタイムで働くことが難しいとか。

「○○ができない、することが難しい」というのは、「本当は○○できる自分でいたいのにできない」という自分を責める材料になりやすいからです。

もちろん「できない、難しい」には様々な理由があり、それは何も当事者のみに原因があるわけではありません。しかし、細かい理由や原因などはともかく「○○できる」という“理想の自分”ではないという事柄そのものが、ひとつの苦しさになります。

“理想の自分”を求めていくことは本来悪いことではありません。でも時にそれに苦しめられることがあるのはなぜでしょうか。

そのことを考える時には、その“理想の自分”が「誰にとっての理想なのか」という視点が重要です。

特定の誰かや不特定の人たち、社会、そういった他者からの視線に対しての“理想の自分”であれば、うまく理想に近づくことができている時はいいでしょうが、近づくことができなくなった時、「理想の自分になりたい」という感覚から「理想の自分でなければ自分には価値がない」という感覚へ変化してしまう場合があります。

つまり、自分の内側から生み出されたと思っていた“理想の自分”が、実は外側からの視線によって作られた“誰かにとっての理想の自分”である場合があるということです。

その“誰かにとっての理想の自分”になれていないと気がついた時、襲ってくる自分自身の無価値感、不要感は耐え難い苦しみです。

その無価値感や不要感から逃げるために、「自分は(誰かにとって)こんなにも理想的な人間だ」と、自らハードルを上げて自分を大きく見せたりもします。

「学校すら行けない(働くことすらできない)自分だけど、それでも私はあなたにとっての理想ですか?」という無言の問いに対して、あなたはどうこたえますか?

勘違いを防ぐために予めお話しておきますが、寄稿の内容はあくまで『もぐり』の古豊慶彦さんが、相談を通じ感じた感想です。

当然ですが、個別相談の内容ではありません。守秘義務というものがあります。

相談をお考えの方は安心してご検討ください。

 

さて、今回は「理想の自分」の話でしたね。

 

「理想の自分」というのは難しいものです。みなさんには「理想の自分」はありますか?

アニには「理想の自分」あります。ですが、それは自分が望んだことをできる「理想の自分」であって、誰かに認められるための「理想の自分」はありません。

ただ目的を実現するために「他人から見られている自分」を意識することは大いにあります。嫌らしい大人ですね(笑)

「人は自分が見たいように見る(※)」という言葉があります。

人間は自分が“こうあってほしい”と思うことがあると、事実を解釈する時、自分が望むことに都合の良い解釈をする。

例えば、ある若者Aさんが老人の荷物を持ってあげたとします。

それを見ていたBさんは、普段からAさんの優しい人となりを実感していたので「Aさんのことだから、手伝ってあげているのだろう」と思いました。

対してCさんは、Aさんの風体が派手で言動も荒らく、また周囲の評判も悪かったことから「Aさんはもしかしたら、盗みを働こうしている」と思いました。

これはちょっと極端な例ですが、人間は自分の持っている情報を精査して、自分が思っている(望んでいる)解釈を相手に押し付ける傾向があると思います。

事実に解釈を交えると一般的には真実と言います。某アニメの決め台詞で「真実はいつも一つ!」というのがあります。正確には「真実は人の数だけあって、事実は一つ」です。

仮にAさんが窃盗罪で捕まったとします。Bさんにとって「勘違いから捕まった」というのが真実となり、Cさんにとって「それ見たことか」というのが真実となります。

Aさんが何故そんなことになったのかは、本人しか知り得ないことでしょう。もしかしたら本人も知り得ないかもしれません。

ちょっと前置き長くなりましたが、この「人は自分が見たいように見る」は「理想の自分」にも言えることです。

他者から認められたいための「理想の自分」だとする場合、他者が認める「理想の自分」とは他者の「人は自分の見たいように見る」結果に則したものです。つまり人の数だけ無数にあり、全てに応える「理想の自分」は不可能です。

誰か一人だけの「理想の自分」であろうする場合、そもそも「人は自分の見たいように見る」訳ですから、その誰かが正確に自分を捉えているかは別の話です。

結論、他者に認められるための「理想の自分」は一生叶わない徒労というのがアニの意見です。ちょっと乱暴な物言いですけどね。

では、何のための「理想の自分」であれば良いか?

「自分のための理想の自分」は正解に近い不正解だと思いますけど。長くなりそうなので、続きはまた別の機会にでも。

みなさんにとっての「理想の自分」はどんな感じですか?

 

※原典は『ガリア戦記(カエサル著)』での「人間は自分が信じたいと望むようなことを自分から望んで信じる」です。元来はカエサルの軍事論評なんですが、認知論・心理学的な使われ方が多いですね。ちなみにアニは某RPGでの印象が強いです。

『第7回もぐり 不登校・ひきこもり講座&相談会』についてはこちら

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