不登校・ひきこもり情報誌「今日も私は生きてます。」編集部主催イベント『生きづらさを語る』に参加してきました
アニです。
不登校・ひきこもり情報誌『今日も私は生きてます。』編集部主催イベント、当事者・経験者による講演会『生きづらさを語る』に参加してきました。
とは言えアニはこのイベントの運営だったので、参加というよりは報告に近いんですが。
『生きづらさを語る』は2部構成で、前半は鴻原崇之さんによる講演会。後半は当事者・経験者2名と不登校・ひきこもり情報誌『今日も私は生きてます。』の代表・古豊慶彦さんが加わってのパネルディスカッションです。
『生きづらさを語る』第1部・鴻原崇之さん講演
鴻原崇之さんは当事者・経験者として全国各地で講演活動を行っておられます。今回は自身の体験をお話になられました。不登校になったころから、ひきこもりの日々や周囲との葛藤、お母さんの支え、同じ当事者や支援者との出会い、今の自分など。
穏やかな語り口で色々と話されました。詳しい内容を知るのは参加した人だけの権利でしょうけど。
アニ的には共感できる部分がけっこうあります。例えば、一発逆転を狙って色々とがんばっても全然上手くいかなかったり。けっこう当事者あるあるだと思います
『生きづらさを語る』第2部・パネルディスカッション
第2部は鴻原崇之さんと古豊慶彦さん、当事者・経験者2名によるパネルディスカッションです。色々なテーマに対してそれぞれが自分の経験を基に意見を言い合う感じです。
主に「家にいる時どうしていた?」「おこづかいってあった?」「家族とどう関わっていた?」の3つのテーマがありました。今回は「おこづかいってあった?」での話を紹介しますね。
「おこづかいってあった?」
ひきこもり当事者のお金問題ですね。「ひきこもりにおこづかいなんて!」と思う人もけっこういるのじゃないですかね?
鴻原さんの場合
おこづかいはあり、何とかやり繰りしていた感じだそうです。ちょっとおこづかいでは買えないけど買ってほしいものがある時、鴻原さんは「買って」とは言えなかったそうです。親の経済的な苦労とか色々考えると遠慮していたようですね。
Aさんの場合
会では名前を仰っておられましたが、ここではAさんで。
Aさんはそもそも仕事しておられて、その後にひきこもりになられました。なので貯金があったそうですが、その貯金を下ろしに行くことができなかったそうです。
おこづかいはもらっていたそうで、真夜中にコンビニぐらいは行っていた(※話には出ませんでしたが、Aさんがひきこもっていた当時はコンビニATMの普及が進んでいない頃です)そうです。
しかしある日、おこづかいがストップ(当事者の間では「経済制裁」と呼ばれていますが)。真夜中の外出すらせず、ひたすら籠っていたそうです。
他のテーマでAさんが部屋には5・6年間TVが無かった(壊れてた)と仰っていました。TVっ子かつ廃人ゲーマーのアニには耐えられませんね。
Bさんの場合
こちらも会では名乗っていましたが、ここはインターネットの世界なのでご勘弁を。
Bさんはアルバイトをしていたので、Aさん同様ある程度の貯金があったそうです。ただストレスからなのか散財をしてしまうそうです。
おこづかいはあるようで、今はポケットサイズの出納帳にちょっとした家計簿をつけているそうです。
本人曰く「ドケチ」になったそうですが、たまに散財してしまう時があるそうです。ただ前ほど怖くないそうで、どれだけ使ったか分かるのが安心らしいです。
アニが考える『生きづらさ』
ここからは鴻原さんとパネリストの2人の話を聞きながら思った、アニが考える当事者・経験者としての『生きづらさ』です。アニは主に3つの『生きづらさ』があると思っています。
文化的でない生活を送らざるを得ない『生きづらさ』
お金がない、物がない。一見欲張っているように見えますが、実際は「人が文化的で最低限度の生活」を行うためのものです。
例えばAさんのようにTVがなかったり、インターネット環境がなかったりすると、情報を得る手段は本当に限られてきます。お金がなければ外出もままならない。バスだってタダじゃありませんから。もし当事者・経験者に対して外出の望むのであれば、ある程度の“投資”が必要だと思います。携帯電話もなしではアルバイトもできません。
ベーシックインカムという考え方に代表されるように、最低限度の生活レベルは保証する必要があると思います。
伝えることが難しい『生きづらさ』
自分の気持ちを分かってもらうのは家族でも難しいことです。
理由としては気持ちというものが言語化するのに難しく、また伝わりづらいところにあると思います。みなさんは自分の気持ちを「正確」に「正直」に「効率」的に喋ることはできますか?
例えば「悲しい」と一言で言っても様々な「悲しい」があります。また人それぞれで「悲しい」の定義が違いますから、同じ言葉でも「正確」に伝えるのは無理があります。
「正直」にもかなり難しいことです。
人間には「~のように思われたい」と考えることがあります。当事者・経験者にもそれは当然あります。例えば自分は大丈夫であるという見栄から、逆にかまってほしいので弱っている素振りをすることもあります。
自分に正直に生きている人間はそういないでしょう。多かれ少なかれ自分に嘘をついています。もしかしたら「自分は自分に正直に生きている」という嘘かもしれません。
それもまた自分の気持ちなので尊重しないといけないのですが、時に「正直」さを失う要因になります。
「正確」「正直」に言葉を伝えようとすると、今度は言葉が尋常じゃないぐらい多くなります。それは相手にとって苦痛です。つまり「効率」的ではないのです。
伝えるのに適しており、なおかつ端的でなければ、相手には伝わりづらい。言葉をちゃんと選んでない。
気持ちだけをぶちまけるだけの会話があります。ストレス発散になりますが、ただ相手には伝わらない。そういう時は大抵「効率」を考えてない結果だとアニは思います。
「ねだり、ねだられる」の『生きづらさ』
「求めよ。さすれば与えられん」とは聖書の有名な一説です。
しかしながらこの「求める」ということを「ねだる」ことと勘違いしている人が多いように思います。
「求める」とは、自分自身のやれること・やるべきことを最大限にやってはじめて成立することです。しかし「ねだる」とは神様仏様的な存在がある日突然助けてくれることを期待しているかのようなものです。
これがゴチャゴチャになると徒労感を感じたり、不必要に何かを求められたりとしやすいです。わかりにくいですから、いくつか例を挙げたいと思います。
「いつか自分の気持ちをわかってくれる」
そう思っている当事者や家族はいるでしょう。伝える努力をして「求めている」のなら、いつかわかってくれるかもしれません。しかし何もしていないのなら「ねだっている」に過ぎません。
「仕事をしたい・させたい」
当事者が、仕事をする前準備として居場所などに行ったりするのは「求めている」ことだと思います。今できることをして、これからできることを増やすことは素晴らしいことです。
ですが、ただ「どっかから仕事の話ないかな。あの人またアルバイトの話をもってこないかな」とか他者に期待するのは「ねだる」ことです。
家族の方も同様で「仕事させたい、勉強させたい」と考えて強引にレールを引くのは当事者に対して「ねだって」います。
「求める」とは今できることをすることで、できないことを強要することではないからです。
『生きづらさ』をどうにかする答えは、自分で見つけるしかない
今回の講演会、74名の参加者の方々、当事者・経験者のアルバイトの皆さん、親の会たんぽぽからのお手伝いの方々など、多くの方々に支えられて開催することができました。
本当にありがとうございました。改めてお礼申し上げます。
今回の講演会はいつもよりアンケートの回収率が良かったです。ただ同時に批判的な意見もありました。
批判として一番多かったのは“答え”がないことです。
不登校・ひきこもり情報誌『今日も私は生きてます。』は共感を大切にしている団体です。
これはアニの考えですが、同じ当事者であってもそれぞれが絶対に何か違う“答え”を持っています。しかし“答え”に辿り着くヒントとしての“共感”、自分の気持ちを確認するための“共感”というものは必要だと考えています。
今回の講演会で“答え”を提供できるとは全く思っていません。“答え”を“求める”のは自分自身で為すべきだからです。
ただ、この講演会がその手助けになったのなら、本当に嬉しいことだと思っています。
『不登校・ひきこもり情報誌「今日も私は生きてます。」編集部』についてはこちら
この投稿へのコメント